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2014年02月16日

タイトルは無し

[2014年02月19日01:45-ish 追記]:タイトルを『タイトルは後回し』から『タイトルは無し』というタイトルに変更致しました。
[2014年02月19日01:30-ish 追記]:
以下の[2014年02月18日19:30-ish 追記]を校正致しました。(時間がなく、書きなぐり夕食に取り掛かっており、読み返しておりませんでしたので。

[2014年02月18日19:30-ish 追記] : 以下に表現した「良く解らない事...」とは、『自分で理解していないことについて』ではなく、『何故、ああいったサイコパスが野放しのままなのか、本当に何故なのか解り兼ねて...」と言う意味です。

  クリスチャンは、常に主の御心が何であるかを丁寧に模索しながら、歩んでいます。我々の身に起こる事の中には、それまでの聖書解釈や教わったことなどだけでは理解し難いことが多く起こりますし、その度に、誠実に主の御心を問わずに居られません。それはクリスチャンの生活にとっては極当たり前の事として我々は捉えております。その多くは、我々の聖書を新たに追求する必要も生まれ、その時点までの信仰状態に挑戦する物事が多く発生し、その度に模索も深まってまいります。そこで、信仰を捨て、好きなように生きることを選ぶ者達は、それを選んで信仰者ではなくなりますが、硬く立つ者は決してその様な事を致しません。その中には、「解らない事」=「信仰上、(自分勝手に結論など立てる積もりが無いので)こんな模索をしているところです」という途中継可の分かち合いの方が、自分の勝手を言い放って逃げるより誠実であることが通常起こっております。それを、信徒同士は、分かち合います。 自分勝手な考えを押し付ける活動と、信仰にある信徒の会話は、それぞれ全く別ものものです。ココは信仰の話をするブログですので、敢えて、"wanted-sheep-found.seesaa..."ではなく、こちらに書いた、と、記事の前置きにも示しました通りです。
 

【ところで、編集中に記事がすっかり真っ白に消滅いたしましたので、追記部分の一部は一から書き直してあります。】

  Cyber Stalkersが来てしまい、次々と純粋に信仰者同士のみで語れるブログを...と、このseesaaで今や4つ(5つまで作れる様子ですが)作ってしまって居りますが、
  前置きにもその由を表現したつもりですが、今回の記事もクリスチャン同士の記事であって、世の(カルトなど)全く違った者に対してまで考慮に入れて書いては居ませんでした。 
  クリスチャンでもないのにクリスチャン同士の話を横から読んでも、どうせ、世的な感覚と理解のなさの故に、こちらの思いもよらないズレた誤解をされ、頻繁に勘違いをされ、誤られ、(大抵の場合は、自分の最も気に入ったところまでこちらの意図を悪化させるなどの解釈を施し、あたかもこっちがそこまで下賎な人物ででもあるかの様に誤解し、結論付けた上で事態を進行させようとするのが頻繁なようですが)、一方的な解釈でお祭り騒ぎになる傾向は、今もそのままだということでしょう。

  わざわざ解説させられています。 


良く解らない事に付いて書く記事(=推測):


   犯罪等々が野放し、と云われる状態にあり、何故なのか(主は何をしてるのか?)と
不審に思わされる時世ですが、

  
  ここは私のクリスチャン専用ブログにしてあるのでこっちに書く内容になりますが、
ちょっと、余りにも悪人が野放しだと、少なくとも最後の『最後の審判』の日と照らし合わせて理解しようとするのは、
クリスチャンとして割とごく普通ではないかと思います。
  全能の主の御前に立ちます;そこで、「誰々がそう言った(教えた?)から...」とか「法律が裁かなかったからやり放題にやった...」等々言えないように、外的な要因に依存できな九なり、個々が自分の判断で善悪に従う時期を通過させられているのではないでしょうか? つまり、個々の善・正しいこと、への熱意や、悪への傾倒・それの抑制力の無さ/動機の強さなど、個々の性質に任せられてしまっている状態では?
しかも、別にクリスチャンでなくても、全ての真人間の心には良心と言うものが書き記されて居るわけです(ロマ2:14-15;&1:19-20)。(「だから法律や行政が何も正しくしなくて良い」という意味で書いていない!)

  聖書には、世の終わりには、正しいものはより鍛えられ清められるが、悪人はより悪くなる、とあり(ダニエル11:33, 12:10, 2テモ3:13、エレ9:3...)、主がある一線以上の罪びとをサタンに渡してしまい、なるがままにするという内容の箇所もあります(ロマ1:24, 1テモ1:20, )。
  これに関連して、 現世での主の介入ですが、よく気が付かれているところの件ですが、ある人は、ほんのちょっとした事でも即効で主の鞭が派手に降りてくるのに対し、どこまでやっても放置されている極悪人の存在についても(少なくとも即効ではなく何年何十年と割と熟成されている)、人間的な理解と逆行している聖書の法の一つで、多くのクリスチャンが不思議に思うところです。
  即効の最も顕著な例がAnanias & Sapphira(使徒5:1〜)。次いで、Belshazzar(ダニエル5:1,7:1)(宴会で手だけが出てきて壁に警告が出たやつ)、またSamson(髪を切られた途端)...、主の民の場合、また、ヘブル書にあるので良く知られている様に、主は愛するものを真摯に取り扱うのであり、何もされないならば、神の家族などではなく私生児だ(ヘブル12:7-8)、また、主の取り扱い/裁きはまず主の家庭内から(一番手元から)始まる(1ペテ4:17)、などと教えられて居るとおり、以前”かの国”でAnanias & Sapphiraについて学んだのですが、Ananias & Sapphiraが即効でヤラレタ理由はとりもなおさず、あの二人は主の御心にとても近い聖なる使徒たちであったにも関わらず、私たちの知っている極悪人に比べたら子供のいたずら程度なのに(比較して幼稚に表現すれば「チョットの出来心でチョット献金に回した数字のパーセンテージを変えたダケ」で)にも関わらず、使徒行伝にある通りの結末だったのは、二人がそれだけ主の心の中に近い聖者だったからだ、という説明が成り立つ気がする。
  本当にクリスチャンになった者なら経験しますが、器として自分の中が洗われて行き、詰まりも取れて行く、信徒のPilgrims of Progress(漢字変換が出来ない⇒覚えていた読み方でイカッタんだか判らなくなってしまった!)中で、ちょっとした小さな罪が器中を一瞬にして駆け巡り、全体を通りまくり(詰まりが取れ、洗われて凄いスピードで駆け巡るようになってしまっている!)、という側面にも関わってきていますし、現象だけ捉えれば、世の終わりの教会脅威怪では、蚋(ブヨ)は濾されるのに、駱駝(ラクダ)はまる飲み込みされています(マタイ23:1-39)。関係ないですが。(しかし、Baruch haba, Ba-shem Adonai!と言うまでは、主の御臨在は戻らないそうです。)

  ひょっとしたらですが、最後の審判に向けて、全員、外的な要因に依存したままでそこに至るのではなくて、もう、一人ひとりの純粋な判断(=責任)に移行して最後に向かうなら、申し開きはないのであって、そうだとするならば、正しければ正しいほど正しくあろうとするし、捕まらなければ何でもする、好きなようにしていればいい、等と言うと、どんどん悪人度が増し、そうなっているでしょうし、
  その延長で、最後に至るのではないのかなと言う、ふとそうかもなと思った〜〜〜


最近、自動的に?メールソフトが立ち上がります。
今、また勝手に立ち上がりましたので、校正・再読なしで投稿しておきます。

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