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2012年05月30日

被害報告の積りが聖書の話に変わった記事

[Originally Posted to my other blog on & at 2012-05-30 16:40:01]

[嫌がらせを訴える為の記事だった筈が書いて行く内に聖書に戻れた記事]

 「酷い人達って居るんだな…」ともうショックな気持ちの所為で、傷ついて胸が張り裂けそうな位ですが、
またもや今回、
『私自身』が自力ではひっくり返っても想像すら何光年も私の人間性からかけ離れていて思いもよらなかった
凄い事を、その想像すら出来ない凄い事を、
この私が、
思っていたりしていたかの様に…
という、誰か知らない人達の『脳内イメージ』を私にだぶらせるのか、もっと心の深層でそれを私に投影してしまい、自分達自身が自分の投影像に気付かず騙されて、本気で
知りもしないし実際に会った事すら無いこの私の事を、
実際の私自身が想像すらしたくもない、凄い、私には不可能な(!)、
もっと世の中の汚い色々良く私なんかより詳しい人達なら本当にあり得るのかも知れない様な、

私ならDVDですら見たくもない、(…最近ここ5-10年に買ったDVDには日に日に凄いシーンが+15位ですら入っていてスキップして話の筋が解らなくなってでもなるべく見ない様にしたり、
最近は徐々にオカルトイメージが増えて居ます。ニュースでもグァンタナモの様に何故わざわざ見せるのかと思ってしまう映像が増えていますが、
話が脇にそれましたが、

兎に角、私自身でなくて、
誰かの脳内の強烈な悪か何かが処理仕切れずにあるのか、そういうものが
何故、誰のでも、どんなのでも『私』に投影されて、
私自身ではないのに、その自分達自身の脳内イメージが裁かれるべきなのに、
代わりに投影されたスクリーンとされた(例えば典型的な例として)『私』が叩かれたり追い詰められたり、
酷いです!



最も、祭司が皆を代表して捧げる『犠牲』は、
「本来自分達が受けるべき裁きを自分達の『身代わりに』受けて貰う」為の、言わば、神の前に、「私達はこうしました、が 、自分達では相当する裁きを受けられません。代わりにこの犠牲の羊(など)を捧げますので、これに受けさせて下さい。」といって捧げるのが、その本来のアイデアです。

そこで、そんな事を幾らしても自分達が改善されず、従って毎年毎年、大祭司が至聖所へ代表して一人迫りに行っていました。

新訳は、私達の永遠(とわ)の贖い(神が最終的に全ての人類の罪の受けるべき裁きの全てを余さずご自身に、その子なる神へ下し、それをそのまま子なる神は受け留め、しかも、自身の罪が無かったから可能であったところの、贖いの『完成』を果たした証拠に復活された、永遠の勝利主イエスさまが、おられるのです。だから、この方を受けるなら救われ、もう果たされたこの完璧な贖罪をなおかつ受け入れないなら、もう後にも先にも贖罪は残されて居ない為に、サタンとその使いが行く為に(本来地獄は『人間用』では無い。が、)それを受けずにサタンに従うならその御使い用にデザインされた地獄という場所へ行く以外に残されて居ません。

荒野で誰でも毒蛇に噛まれたものが見上げたら癒された、あの高く上げられた蛇の像[=民数記 21章] は、私達の主イエスの『型』です。
主イエスを見上げるべきであり、他の信徒等をスケープゴートにして自分の深層を投影し(投げつけ)叩き、追いやるのではない筈です。

ところが、未だに主を覚えず、代わりに誰かを立てて迫害するのは未だクリスチャンとして…(?)私には解りません。 と言っても、一人一人がそうしてしまう傾向自体もさることながら、
誰かが、群衆の目をたぶらかす為に誰かをスケープゴートとして、身代わりに何でもかんでも擦り付けられる重宝な犠牲を(荒野の蛇の像の様に)立てれば、群衆は何時までも(荒野の蛇の像の様に)自分の影を投影してはそのスケープゴートの犠牲を叩き続けて、当の首謀は安全に逃げ切るかも知れません。
私達には全てが見えていないので…


◇I Corinthians 1:5-7
For as the sufferings of Christ abound in us, so our consolation also aboundeth by Christ...

[尻切れトンボ記事]


posted by BA-FT-WS at 16:40| Comment(0) | ♫7 SCRIPTURES ♪ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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